場面緘黙症に悩んだ話

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私は幼少期から高校時代までとある症状に悩まされてきた。

場面緘黙症(ばめんかんもくしょう)である。

私の症状としては、家庭では問題なく話せるのに、必要に迫られない限り、自分の意志とは関係なく人前で話せなくなる。声を出したくても、のどに詰まって発声できない。という具合だ。声帯に異常があるわけではない。人見知りとも性質は違う。声は出せるのに、特定の環境だと発声できないのだ。

私は現在20代後半だが、症状は一般人と変わらないくらいまで改善している。声が小さいという欠点はまだあるが、初対面の人でも普通に話せるし、公共の場でものどに詰まるということはなくなった。

数百人に一人の割合で発症するらしく、幼少期に症状が出やすいのだとか。大人になっても治らないケースがあり、自然治癒はしない。

発症の明確な原因は判明していないらしい。本人の「不安になりやすい」「緊張しやすい」という気質が関係しているだろうとのこと。環境の変化によるストレス説もある。

この病名を初めて聞いたのは、社会人になって働き始めたころ。テレビのドキュメント番組で緘黙症の少女の特集を見たときだ。私の症状と完全に一致していた。大人の理解も得られず、幼少から苦しんできた謎の症状の正体を知ったときは腑に落ちたとともに、やっと知れたことに安堵した。

ネットが普及した昨今では緘黙症の認知度も昔より上がっていると思うが、私みたいに話したくても話せなくて、理由を聞かれても答えられない。不安を抱えている人は少なからずいると思う。またはそんなお子さんがいて、どうしたらいいか悩んでる親御さんもいるかもしれない。

ここでは、私が緘黙症でつらかった経験と改善していった経緯を書こうと思う。私の経験談が、悩んでいるだれかのためになればと思い、ここに書き残そうと思う。

発症

4~5歳のころ、保育園に通いだしてからすでに症状は出ていた。友達と遊んでいても笑い声ですら声を出した覚えがない。外で遊ぶのも先生から促されない限り、遊ぼうとはしなかった。母親からは「なんで保育園でお話ししないの?」と聞かれて、自分は「明日こそ保育園で声を出すよ」と会話したことがあったが、とうとう卒園まで声を出せなかった。小学生になったら今度こそ!と意気込んだ覚えもある。

家ではかなり活発に遊んでいたのに、保育園に行ったとたん急に大人しくなる。私はそんな子供だった。

小学校低学年 ~症状がひどかった時期~

小学校に入学しても相変わらずだった。出席確認のときや授業中に指名されたときなど、声を出す必要があるときは小さい声でも発声ができていたが、同級生や高学年と話すとき、グループ活動をしているときなど、人がたくさんいるところでは自ら話そうとしなかった。それでも私に話しかけてくれて、一緒に遊んでくれる友達がいて、今思うとありがたいと思うとともに申し訳ない気持ちでいっぱいだ。

今でも悔やまれる出来事があった。

帰りの準備をしていて、ランドセルを戸棚から出そうとしたとき。私の肘が同級生の頭にぶつかってしまった。同級生が「痛い!」と言って、私はすぐに謝ろうとした。だけど、こんなときでも「ごめんね」の一言が出なかった。いじわるをしたいわけじゃなく、本当に謝りたかった。声を出したいのに、のどにつっかえて言葉が出てこなかった。なんで声が出ないのか、訳がわからなかった。自分の頭の中が「謝らなきゃ!」「声を出せ!」ってずっとぐるぐるしていて、少しパニック状態だったかもしれない。何も言わない私を同級生は睨みつけて、怒って自分の席に戻ってしまった。結局謝れず、私はそのまま呆然と立ち尽くしていた。

あのときの同級生、名前を忘れてしまって申し訳ない。遅すぎるけれど、痛い思いをさせてしまってごめんなさい。謝れなくて本当にごめんね。

小学校高学年 ~環境の変化と症状改善の一歩~

家庭の事情で転校をした。環境がガラッと変わったのである。これを機会にちゃんと声を出そうと意気込んだものの、いざその場になると声が出なかった。さらに、大人たちからの理解を得られなかったのだ。

新しい担任からは「じっとしていてもお友達はできないよ」「なんで話せないの?」と言われた。そんなことはわかっている。みんなとお話ししたいのに、なんでか知らないが声が出ないのだ。話せない理由を私が知りたいくらいだった。

ある教科担当の先生は、授業中に私を指さして「あの子は無口なの?」と同級生に聞いた。みんなに聞こえるように。泣きそうになった。とても悲しくなって、わずかなSOSのつもりで国語の自由作文のときにそのことを書いたら担任から聞き出しをされた。それ以来、教科担当の先生は私が無口であることに触れなくなった。

歌の練習をするときも、声が小さいから最後まで居残りさせられた。自分は精一杯声を出しているのに、先生は納得しない。声を出さない時間のほうが長いから、普通の子より声が響きづらいのだ。

つらいことが多かったが、楽しい経験もあった。この楽しかった経験が、緘黙症(かんもくしょう)の改善のきっかけだったと思う。

やっとできた数少ない友達はマーチングバンド部に所属していた。一緒にやろう!と誘われて見学に行ったら、みんなとても楽しそうに楽器を吹いていて、雰囲気も明るかった。転校前から音楽部やバトン部など華やかな部活に憧れていたのもあって、入部を即決した。

入部してからは、音楽の練習に明け暮れた。話せなくても楽器を吹くことで自分を表現できた。部活は本当に楽しかった。先輩や後輩とのつながりを持てたのもあって、必然的に話す機会が増えて私の緘黙症(かんもくしょう)の症状は徐々に改善していった。

小学6年生のときは、生徒会に立候補した。生徒会の活動もとても有意義で楽しかった思い出がある。もちろん、大勢の前でマイクを持って話したり、放送室でアナウンスをしたり、声を出す機会もあった。緘黙症がなければ、私は本来は活発な子だったに違いない。

中学時代 ~波乱な時期と停滞~

中学生といえば思春期真っ只中。自宅近くの中学校に入ったが、そこは不良が多く、地元でも荒れているところで有名な学校だった。(高校に入ってから知った)

中学でも音楽は続けたいと吹奏楽部に入った。だけど、当時の先輩たちの中に雰囲気が怖い人や威圧的な人が多かった。その人たちの前では委縮してしまい、緘黙症(かんもくしょう)の症状が発揮して挨拶すらできなくなってしまった。それでも部活は卒業まで続けた。音楽が楽しかったから。

荒れている同級生が多かったから、私はなんとか大人しくやり過ごした。かなり気を使って、吐き気を我慢しながら中学校生活を送っていた記憶しかない。

中学2年か3年のときの担任に「あなたはなんであまり話をしないの?」と聞かれた時があった。自分でも理由はわからなかったから、「人見知りだからじゃないですか?」と適当に答えた。担任は笑い飛ばしていた。大人はあてにならないと思春期ながら思った。

高校時代 ~出会いと前進~

受験する高校は自分で決めた。親や担任が勧めた高校より、偏差値が高めのところだ。チャレンジだったが、制服が可愛かったからしょうがない。

無事に受験に合格し、高校に入学した。部活はやはり吹奏楽部に入った。ここで初めて尊敬できる人たちに出会えた。顧問の先生と先輩たちだ。音楽の技術もセンスもずば抜けていて、さらに社会で生きていくうえで大事なことをたくさん学んだ。人柄も素晴らしかった彼らとの時間は本当に貴重で、先輩と話をするのも音楽をするのも楽しかった。3年間の高校生活は、部活動に心血を注いだ。学生時代の中で一番充実していたと思う。部活動での経験や教えは、現在の私にも沁みついている。

高校を卒業するころには、緘黙症の症状はだいぶ改善されたと言ってもいいい。吹奏楽は大勢の前で演奏をするのだから、それで鍛えられたのかもしれない。大勢の前で話をしても、少し緊張するくらいで済むようになっていた。

社会人生活から緘黙症の改善

高校卒業後は、就職することにした。それも接客業だ。面接の練習で、先生方から「全然大丈夫!」と太鼓判を押されるくらい、緘黙症(かんもくしょう)の症状は改善されていた。

仕事はとにかく忙しかった。レジ・電話対応も当然ある。緘黙症(かんもくしょう)だったなんて忘れるくらい仕事はめまぐるしかった。だが、従業員同士の仲もよくて、仕事は楽しかった。接客を経験したことで緘黙症の症状はほとんどなくなった。お客さんと雑談できるくらいの余裕すらあった。

久しぶりに親戚に会うと、「昔と雰囲気が全然違う」と言われた。自分でも変わったと思う。

私が場面緘黙症を克服できた要因

ここまで長々と書いたが、自分が緘黙症(かんもくしょう)を克服できた要因に共通して言えることがある。

緘黙症を克服できた要因
  1. 楽しい経験・自信がついた成功体験を積む
  2. 恐れず行動を起こした
  3. あえて人前で話さなければならない状況に身を置いた

1.楽しい経験・自信がついた成功体験を積む

私の子供時代は、楽しいことにはとことん熱中するタイプだった。そのきっかけがバンド部である。その中で達成感を味わったり、楽しいと思ったり、パフォーマンスが良かったよと褒められたりすると自信がつく。自信がつくと、人前でも話してみようと勇気が出る。

逆に、恐怖や不安感が強いと緊張状態になって声が出なくなってしまう。こんな状態では、無理に話せと言われてもパニックになってしまうだけだ。

2.恐れず行動を起こした

私の本来の性質に「行動力がある」のではないかと思う。自信がつくようになってから、「自分がやってみたいと思ったことは恐れずやってみる」ということを小学時代から無意識にやっていた。それが新たな経験と自信につながっているから、行動を起こしてよかったと思っている。

3.あえて人前で話さなければならない状況に身を置いた

私で言う「あえて身を置いた状況」というのは、生徒会・部活動・接客の仕事である。私は幸いなことに、必要に迫られると発言するくらいはできていたので、「あえて」話す機会がたくさんある状況に身を置いた。大事なのは、嫌ではなかったということ。むしろ、そんな状況にいることを楽しんでいたからできたのだ。

最後に

症状の重さも、性格も、置かれている環境も人によって違う。私は自分で緘黙症(かんもくしょう)を克服できたが、幼少期から10代のほとんどを緘黙症で苦しんできた。「自分は(あの子は)緘黙症ではないか」と気づけたら、病院に行って正しい診断をお医者さんからもらえたら、少しは気が楽になったかもしれないと今でも思う。大人に相談すればよかったじゃないかと思うかもしれないが、相談もできなかった。自分でもなんで話せないのかわからないから、うまく説明ができなかったのだ。

苦しい過去はあったけれど、その経験も無駄ではない。今はそれを覆すほど楽しい出来事がいっぱいだ。いろんな人たちと出会って、いろんな経験ができている。

自分が緘黙症であったのは、一種の個性なのかなと思うことにした。もしくはある種の人生の試練だったんだと、かっこよく思ったほうが明日を明るく生きられる。

以上が、私の経験談でした。

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